上越市
戦争被害の状況
戦争で多くの方が犠牲に
上越市では、市内であった戦争にまつわる出来事として次の3つについて語り継ぐ活動を行っています。
直江津捕虜収容所
昭和17(1942)年12月、日本海に近い直江津地区に、捕虜収容所(東京俘虜(ふりょ)収容所第四分所)が開設され、約300人のオーストラリア兵が収容されました。
暖かい南国シンガポールの戦いで捕虜になったオーストラリア兵を待っていたのは、倉庫を転用した暖房もない捕虜収容所、経験したことのない深い雪と厳しい寒さ、食糧不足、過酷な労働でした。
終戦間際には、アメリカ、イギリス、オランダを含め収容者数は約700人となり、終戦後の昭和20(1945)年9月に閉鎖されるまでの間において、61人が亡くなりました。
戦後、横浜軍事法廷において捕虜を虐待、死亡者を出したとして直江津捕虜収容所の職員15人が有罪となり、そのうち8人が死刑判決を受け、悲痛な遺書を残して処刑されました。
直江津空襲
昭和20(1945)年5月5日には、直江津地区の軍需工場を標的とした空襲があり、3人が亡くなり5人が負傷しました。爆弾は、工場には命中せず、水田や倉庫に落ち、犠牲になったのは作業中の市民でした。
この空襲は新潟県内で初めて被害を出した爆撃でしたが、当時の情報統制により翌日の新聞では「被害は皆無であった」と報道されています。
名立機雷爆発事件
終戦からしばらくたった昭和24(1949)年3月30日に、名立の海岸に流れ着いた1発の機雷が爆発し、小・中学生と乳幼児56人を含む63人が犠牲になりました。
春休み中の午後、多くの子どもたちが海岸に流れ着いた機雷を見ようと堤防に集まっていた時に、機雷が波で大岩にたたきつけられ、大きな音とともに爆発しました。大きな軍艦をも沈めてしまう機雷の破壊力はすさまじく、多くの尊い命を奪い、百戸余りの家々も吹き飛ばすものでした。
現在、現場付近には機雷爆発の地を示す石碑などが建てられ、毎年3月に地域の皆さんが「名立・平和を願う日」として悲惨な出来事を将来にわたり語り継ぐ取組を行っています。



戦後の復興の歩み
捕虜収容所跡地を「平和記念公園」に整備
直江津捕虜収容所の悲劇を後世に伝え、未来への平和と友好を誓うため、市民と市が協力し、戦後50年を経て、平成7(1995)年に捕虜収容所跡地に「平和記念公園」が造成されました。
公園内には、捕虜収容所の資料を展示した展示館が設置されているほか、平和友好像や捕虜収容所跡地の碑、オーストラリア兵死没者の銘板碑、捕虜収容所職員死没者の銘板碑などがあります。
「平和記念公園」は、元捕虜の思いや収容所職員の遺族の気持ちを理解し、世界平和と友好への祈りを込めて整備されたものです。
公園の開園式において、元捕虜のジャック・ミューディ氏が「私たちの心が愛で満たされていれば、憎しみの余地はありません。心が平和で満たされていれば、戦争を考える余地はありません。」とあいさつされており、暖かい拍手の中、出席者全員でその思いを共有し感動したというエピソードが残されています。


