日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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五泉市

戦争被害の状況

少年通信兵と幻の飛行場
 昭和18年(1943年)10月、村松町(現五泉市)に村松陸軍少年通信兵学校が創設されました。全国から集まった15歳から18歳の少年たちが、通信兵として活躍することを夢見て、この地に集結しました。厳しい訓練の日々を送る中で、少年たちは友情を深め、たくましい精神を養いました。
昭和18年12月には11期生、昭和19年には12期生、昭和20年には13期生がそれぞれ800名ずつ入校し、村松は若者たちの活気に満ち溢れていました。少年たちは、兵士としての基礎訓練はもちろん、通信機器の操作や暗号解読など、専門的な知識と技術を学んでいました。
しかし、戦局の急迫により11期生のうち347名が、入校からわずか1年足らずで繰上げ卒業。そのうち315名は南方戦線へ出陣し、その大半が日本の地を再び踏むことはありませんでした。
日本さくら名所100選に選ばれた村松公園内の小高い丘に少年通信兵の慰霊碑が建立されているほか、村松郷土資料館内で関係資料を展示しています。
また、昭和20年6月には、通信兵学校に近い愛宕原に軍用飛行場を建設するための作業隊が到着しました。秘匿飛行場と呼ばれるこの建設には生徒なども動員され、夏の暑さの中、滑走路や格納庫の建設に協力しました。しかし、滑走路がほぼ完成したころに終戦を迎えたため、この飛行場は使用されることなく、村松の空に戦闘機が飛び交うことはありませんでした。

戦後の復興の歩み

食糧難と集団帰還
 第二次世界大戦は、日本社会に未曾有の混乱をもたらしました。都市の破壊、産業の停滞、そして深刻な食糧不足。特に、大量の失業者が都市から農村へと流入し、農業復興への期待が高まりました。政府は、離職者の帰農を促進し、食糧の自給化を図る政策を打ち出し、農村は、食糧生産の拠点として、また失業者の受け皿として、大きな期待を寄せられていました。
新潟県も例外ではなく、多くの帰郷者が押し寄せ、人口が急増したため、県は集団開墾事業を進めました。
戦前、村松町には陸軍の練兵場が存在していましたが、戦後は農業専門学校や営林署の用地として活用されていました。そこで、満州からの開拓団帰還者が刈羽地区に入植し、新たな開墾地を開拓しました。入植者たちは、厳しい環境下で開墾や農作業に励み、食糧自給率向上に貢献しました。

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