長岡市
戦争被害の状況
長岡空襲について
昭和20年7月20日、当時の古志郡上組村左近地内に模擬原子爆弾が投下されました。長岡に投下された初めての爆弾でした。
その12日後の8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、直後の午後10時30分からB29による焼夷弾爆撃が始まりました。B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。夜間低空からの容赦無い無差別爆撃によって、長岡のまちは瞬く間に炎に包まれていきました。
猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵図さながらだったといいます。
空襲は1時間40分に及び、8月2日の午前0時10分まで続きました。163,000発余りの焼夷爆弾や子弾が豪雨のように降りそそぎ、市街地の8割が焼け野原となり、二つの空襲を合わせて1,488人の尊い生命が失われました。




戦後の復興の歩み
長岡空襲からの復興について
昭和21年7月、新潟県は「長岡復興建設部」を設置、戦災復興事業が開始されました。商工業都市としての復興と発展や住みよいまちの再建を目指した計画づくりが行われ、昭和28年11月21日、長岡市は全国の戦災都市に先駆け「復興都市計画事業の完工式」を挙行することができました。
昭和21年8月1日には、慰霊と長岡市の発展を願い「長岡市戦災復興祭」が行われました。翌年からは、長岡名物の大花火大会も復活。昭和26年には「長岡まつり」と改称され、現在まで続いています。
また、戦災復興5周年となった昭和25年7月には、記念事業として新潟県産業博覧会「長岡博」が開催され、多くの来場者で賑わいました。戦災からわずか5年で開催したこの博覧会の成功をきっかけとして、その後の長岡市のまちづくりは大きく進みました。

