日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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平塚市

戦争被害の状況

平塚空襲
 昭和20(1945)年7月16日から17日に未明にかけて、平塚市は米軍のB29大型爆撃機による夜間焼夷空襲を受けました。平塚を爆撃したのは米陸軍第20航空軍第314航空団の133機で、日本時間の16日午後4時38分、1番機がグアム島ノースフィールド基地を離陸した後、午後11時32分から100分間、平塚を爆撃しました。攻撃目標中心点は商店街にあった飯島百貨店付近(現まちかど広場付近)に置かれ、そこから半径1.2kmの円内に各機の搭載量50%以上の焼夷弾を投弾するという計画でした。米軍の『作戦任務報告書』によれば、この間平塚に投下された焼夷弾はM50テルミット・マグネシウム焼夷弾406,010本とM47焼夷爆弾6,951本とされています。
 この空襲の後、米軍は航空写真による被害状況の調査を行い、旧平塚市の市街区域の57%、第二海軍火薬廠などの工業区域の23.8%に被害を与えたと評価しました。ただ、実際の被害は旧平塚市内にとどまらず、大野町や神田村など現市域に含まれる農村地域や、現在の茅ヶ崎市から小田原市までに及ぶ広い範囲にみられ、罹災戸数は7,678戸(神奈川県警調べ)に及びました。また、米軍が損害を与えた地域とみなしていない場所での焼夷弾の直撃による殺傷被害も確認され、人的被害は死者362名以上(平塚市博物館調べ)、重軽傷者268名(神奈川県警調べ)に及びます。証言等で伝えられる死亡原因では焼夷弾の直撃が75.2%を占め圧倒的に多く、焼死は8.2%と比較的少ないです。焼死者の比率が低いのは、当時は市街地の周囲に空き地や畑などが広がり、火にまかれる状況が少なかったためと考えられます。そのため、避難途中や避難場所での焼夷弾やその部品の人体直撃被害が目立つことになりました。
 7月16日の空襲では沼津、大分、桑名も攻撃目標とされました。また、日本国際航空工業や横須賀海軍工廠平塚分工場など軍需工場の損害は少なく、これらの工場に対しては約2週間後の7月30日に艦載機による爆撃が行われました。

平塚空襲被災後の市内(米国立公文書館蔵)
バラック(米国立公文書館蔵)
東海道を大磯方面へ向かう牛車(米国立公文書館蔵)

戦後の復興の歩み

湘南ひらつか七夕まつり
 戦後、平塚市は戦災復興都市の指定を受け、昭和21(1946)年3月、県土木部の事務所として「平塚復興事業所」が設置され、同年から昭和42(1967)年まで戦災復興土地区画整理事業が実施されました。この結果、駅前広場や公園緑地の設置、道路の拡張などが行われ、現在の街並みが形成されることになりました。
 校舎が焼失した学校では他校の間借りや青空教室が続きましたが、昭和24(1949)年5月に学校再建に向けて学校職員や児童・生徒らが参加した「学校定礎の式」が挙行されました。また、学校再建の財源確保のため平塚市は翌年に競輪を開催するようになります。
 第二海軍火薬廠などの広大な軍需工場は一部が民間企業に払い下げられ、諸企業が進出し、平塚市の産業新興の礎となりました。
昭和25(1950)年7月には復興の目途がつき市民の慰安と外客誘致のため「平塚復興まつり」が開催されました。このまつりは翌年から七夕まつりとなり、現在でも平塚市の一大イベント「湘南ひらつか七夕まつり」として続いています。

学校定礎式(平塚市博物館蔵)
復興まつり(平塚市博物館蔵)

関連リンク