町田市
戦争被害の状況
戦時下の暮らしと戦争被害
『平和への礎に―町田市戦時資料写真集―』(1997年3月町田市発行)には、市民生活に関する資料として、子うさぎ交付風景の写真が掲載されています。1935年(昭和10年)頃から軍が防寒衣服の材料としてうさぎの毛皮に着目し、亡くなった軍人の家族にその生産を求めたもので、子うさぎを無償で各家庭に配り、成長したうさぎを買い上げるという方法で実施されました。写真は、1943年(昭和18年)3月に役場で開催された子うさぎ交付風景です。右側に写る看板には「軍人遺家族養兎交付所」と書かれています。
市域における戦災の主なものは、1945年(昭和20年)3月から5月の間に起きたB29による5件の被害です。4月12日に発生した爆撃では、防空壕に避難していた4人が生き埋めとなり、3人の女児が亡くなりました。『町田市史 下巻』(昭和51年3月30日町田市発行)では、15年戦争における戦没者をまとめており、市域全体の戦没者は1135名でした。


戦後の復興の歩み
町田市の誕生
町田市は、1958年(昭和33年)2月1日に、町田町、鶴川村、忠生村、堺村の1町3村が合併し誕生しました。当時の人口は6万人で、全世帯の4分の1は農家でした。その後、鉄道などの交通の利便性を背景にした商業の集積や、緑豊かな美しい自然、多くの大学等がある学園都市の一面など、多彩な魅力を持つ都市に成長し、人口は43万人を超えました。
市制施行25周年の1983年(昭和58年)には、原爆による悲劇が繰り返されることがないように、核兵器をなくし、平和な世界をつくるため、「非核平和都市」を宣言しました。宣言文を刻んだプレートと広島市から寄贈を受けた被爆石を取り入れた非核平和都市宣言碑は、市庁舎に設置しています。
また、戦没者を慰霊する施設としては、町田市戦没者合同慰霊塔が1971年(昭和46年)に恒久的慰霊顕彰施設として完成し、現在、2300柱を超える数多くの戦没者及び戦争犠牲者の御霊を合祭しています。