日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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青梅市

戦争被害の状況

青梅市における戦争の被害と疎開の受け入れ

 第二次世界大戦中、青梅市域は、米軍機の目標になるような施設や市街地はなかったため、大編隊の集中攻撃を受けるようなことはありませんでした。しかし、戦闘機の機銃掃射、盲爆による不測の被害、傷ついた敵機の墜落などによって、苛烈な戦争の一端を経験しました。昭和20年2月25日、東青梅駅に停車中の電車がP51戦闘機の銃撃を受け、氷川町(現・奥多摩町)の都立第9高女2年生が犠牲となりました。同年4月2日には、東京空襲に飛来したB29一機が被弾し、柚木の山中に墜落し、炎上しました。4月24日、二俣尾・平溝に爆弾一個が落下して5人の犠牲者がでました。
 このような被害はあったものの、青梅市は、直接の空襲を受けなかったため、伊豆諸島からの集団疎開者や学童疎開など、空襲を受ける可能性のある都市の人々の疎開先となっていました。現在の青梅市域では、1,400世帯以上の疎開者の転入がありました。また、疎開した学童の人数は、1,192名であり、食糧事情、環境衛生、学習生活など、あらゆる面で非常な困難と不便に直面しましたが、地元町村民はあたたかい心をもって出来るかぎり保護の手をさしのべました。疎開者の中には著名な文化人、芸術家もみられ、昭和19年3月、柚木へ作家吉川英治が、その後、沢井上分へ画家川合玉堂が、また二俣尾・高源寺へは彫刻家朝倉文夫が来住しました。
 吉川英治は、昭和20年4月2日にB29が墜落した際に、「敵兵でも人間。亡くなれば丁寧に葬ってやらなくてはいけない。」と当時の村人に言葉をかけ、米兵の遺体は丁寧に収容され近くのお寺へ埋葬されたというエピソードが残っています。
 なお、青梅市から徴兵されて従軍した多くの人の中で、戦死者の数は、日清・日露戦争以後の第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、太平洋戦争あわせて、1,190名にのぼる数であったと記録されています。

戦後の復興の歩み

織物生産の「ガチャマン景気」、朝鮮戦争での特需景気

 青梅はかねてより織物の産地でありましたが、戦後は暗澹たる状態が続いていました。しかし、昭和23年から26年頃まで、アメリカ指令軍が生活必需品の生産を促進したため、青梅織物業界では「ガチャマン景気」と呼ばれる空前の好況にみまわれました。この「ガチャ」とは、織物が織られる時の織機の音を形容したもので、織りだせば「万」ともうかる、いくらでも利潤があがるという意味です。
昭和25年、朝鮮戦争の勃発とともに、朝鮮特需景気が起こり、住民の中には進駐軍労務者として横田、立川、府中の基地で武器の修理や整備にあたる者もおりました。
その後、昭和26年4月 調布村(織物工業)、霞村(農地)、青梅町の3町村が合併し、青梅市が誕生しました。この頃、青梅における林業は住宅建築のブームにより好況を迎え、また、セメント景気により石炭石採掘が活況となりました。精密工業の分野では、市内に従業員1,000人以上を超す工場が出現し、土地ブームにより土地の値上がりも起こりました。そして、昭和30年頃には戦前の生活水準を完全に突破しました。
これらの出来事が今の青梅の基礎となりました。

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