三鷹市
戦争被害の状況
中島飛行機武蔵製作所を標的とし、尊い命を奪った空襲
1939年(昭和14年)、防空対策として政府は調布町、三鷹村、多摩村(地名は当時のもの)にまたがる地域に調布飛行場を建設することを計画決定し、1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦と同時に、調布飛行場とも近い地域で中島飛行機三鷹研究所の建設が始まりました。そして、関連する軍需工場や研究施設が周辺に集まり、三鷹を含む武蔵野地域は「一大軍需工業地帯」となったため、人口が急増しました。
1944年(昭和19年)11月、隣接する武蔵野町にあった中島飛行機武蔵製作所を標的とした、B29による東京への初空襲を皮切りに、米軍爆撃機による本土空襲が激しさを増していきました。1945年(昭和20年)2月から三鷹町は空襲を受け、工場ばかりではなく民家も破壊されました。2月16日に三鷹駅車庫、次いで中島飛行機三鷹研究所がある地域などに爆弾が投下されました。2月19日には、当時、三鷹にあった国立中央航空研究所近隣が爆撃され、当時の町長の家も罹災するなどの被害がありました。
4月2日には初めて死者を出す空襲がありました。町の北部の浄水場や住宅地付近が爆撃され、死者は28名、破壊家屋は十数棟に達しました。その後も、工場地帯や住宅地など広い範囲が度重なる空襲に見舞われ、焼夷弾により多くの家々が全焼し、尊い命が犠牲となりました。
