練馬区
戦争被害の状況
成増飛行場と特攻隊
現在の「練馬区光が丘」一帯の地域には、第二次世界大戦当時、日本陸軍の「成増飛行場」がありました。飛行場の周辺には、掩体壕、高射砲陣地、探照灯などの施設も造られました。
戦争後期、成増飛行場には、首都防衛を目的に、飛行第四七戦隊が配属され、「四式戦(疾風)」を主力戦闘機としていました。
しかし、日本の戦闘機の性能では、米軍の爆撃機(B-29)を捕らえることができず、武装や防弾装備等を取り除いた機体で体当たりして迎撃する「特別攻撃隊(後に震天制空隊と命名)」が配置されていました。
体当りによる迎撃(特攻)は、空襲のたびに繰り返し行われ、以後終戦まで、多数の戦死者が出ました。
第四七艦隊は後に沖縄で特攻機の援護にあたり、さらに北九州方面に転機して敗戦を迎えました。


戦後の復興の歩み
戦後の光が丘地域の変遷
戦後、成増飛行場は米軍により戦闘機や基地設備はすべて焼却処分されました。昭和23年に成増飛行場の跡地に完成した米軍の家族宿舎「グラントハイツ」は敷地内に、住宅、清掃工場、学校、劇場、売店、将校クラブ、下士官クラブ、教会など3,006施設を備えていました。基地内では、日本人とともに消防訓練や防災訓練が行われていました。
昭和34年頃から、グラントハイツ入居者が立川・横田基地に移転を始めたことをきっかけに、返還運動が活発になりました。昭和43年に米軍はグラントハイツの返還を表明し、翌44年9月に練馬区は、グラントハイツ全域に「光が丘」の住居表示を実施しました。
昭和48年に全面返還された後、昭和54年に「グラントハイツ跡地開発計画」が都市計画決定され、住宅、道路、学校、公園などの建設が始まりました。そして、平成4年3月に、23区最大規模の団地が完成しました。

