杉並区
戦争被害の状況
激しさを増す空襲により建物強制疎開や集団疎開を実施
大正期の杉並区は、杉丸太の生産や養蚕を主な産業とする農村でしたが、関東大震災で被害を受けた人等が多く移り住むようになり、昭和初期には鉄道沿線部を中心に急速に宅地化が進みました。宅地化にあたり区内の複数の地域で土地区画整理事業を実施し、水道の敷設、学校新設、航空機や航空機エンジンを製作する中島飛行機株式会社の誘致などに取り組んだこと等から、「武蔵野の面影」を残す住宅都市として進展しました。
杉並区への空襲は、B29爆撃機等により、昭和19年11月から20年8月までに計18回行われ、死者は181名、負傷者611名、罹災者約4万3千人、全焼家屋約1万2千棟になるなど、尊い人命や住むべき家を失いました。特に、昭和20年5月25日の空襲では、区内全域に焼夷弾などが投下され、死者は55名、負傷者は516名にのぼる区内最大規模の被害を受けました。
空襲への備えとして、爆撃による施設の延焼を防ぐため、密集市街地の民家を強制的に取り壊して防空空地とする建物強制疎開が鉄道駅周辺で行われ、多くの区民が移転等を強いられました。
また、学童を空襲の被害から避けるための集団疎開が行われ、杉並区の子どもたちは、遠方の宮城県や長野県の旅館や寺で集団生活を行いました。こうした人員の疎開等により、昭和19年2月に26万人弱であった区の人口は、昭和20年6月に18万5000人弱になるなど約30%減少しました。



戦後の復興の歩み
住宅都市としてのまちの発展と原水爆禁止署名運動
終戦直後は、空襲等の戦争被害に加え、全国的に、食糧危機やインフレーション、住宅難に襲われるなど厳しい状況でした。杉並区は、都心部等に比べて空襲による被害が比較的少なかったことや地方に集団疎開をしていた児童が昭和21年3月には全員が帰郷を果たしたこと等から、昭和22年には戦前の人口のピークを突破して、27万人台に到達しました。その後も、建物強制疎開の跡地を活用した駅前再開発や新しい幹線道路の整備など、住宅都市してのまちづくりを進め、現在は人口57万人を超えました。
一方、平和への取組として、「原水爆禁止署名運動」があります。昭和29年3月、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験により、静岡県焼津市のマグロ漁船第五福竜丸を始めとした多くの漁船が被ばくする事件が起こりました。放射能汚染を恐れた消費者の魚の買い控えにより打撃を受けた区内の魚商が、区に陳情請願書を提出、区議会は全会一致で水爆禁止決議を採択します。その折、「水爆禁止署名運動杉並協議会」が区立公民館を拠点として発足し、原水爆禁止署名運動を展開、開始後2か月で区民の7割に当たる約27万筆の署名が集まりました。その後、同協議会は「原水爆禁止署名運動全国協議会」へと発展し、昭和30年11月には、全国から集めた署名の数は約3,250万人を超えました。そして翌31年には、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開催されるに至りました。
また、昭和63年に平和の願いを込めて杉並区が平和都市であることを広く宣言する「杉並区平和都市宣言」を議決し、平成3年に「日本非核宣言自治体協議会」加盟、平成24年に「平和市長会議」に加盟するなどし、他自治体との連携した平和への取組を進めています。

