日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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新宿区

戦争被害の状況

太平洋戦争と新宿
 関東大震災(大正12年)後の人口の流入や新宿駅のターミナルの形成等により、現在の新宿区の前身となる「四谷区」・「牛込区」・「淀橋区」の市街地化は進み、太平洋戦争直前の昭和15年時点で人口は39万人を超え、建物棟数は6万6千棟あまりを数えました。また、区内には、陸軍省や参謀本部、陸軍幼年学校、陸軍戸山学校、東京陸軍第一病院、戸山ヶ原射撃場、近衛騎兵連隊兵営等、陸軍関係の施設も集積していました。
 こうした新宿のまちは、昭和17年4月18日の早稲田地区への初空襲をはじめ、昭和19年12月27日以降、度重なる空襲により、大きな被害を受けました。とりわけ、昭和20年4月・5月の空襲では、「四谷区」・「牛込区」・「淀橋区」の大部に被害が及び10万戸以上の建物が焼失し、淀橋区役所・淀橋警察署・四谷消防署をはじめとする官公署、高田馬場駅・下落合駅・中井駅等の交通機関、大日本印刷工場や三越新宿店等にも被害が及び、終戦時には、区内の約8割が焼失したことが記録されています。

佐久間 國三郎 氏(「平和 語り継ごういのちの大切さを 平和派遣35年のあゆみ」より)

戦後の復興の歩み

復興へ向かって
 終戦直後は深刻な食糧不足でした。配給もあてにならず、人々は物々交換などに頼っていました。焼野原にテントや仮小屋を建て、寒さに耐えての厳しい生活。街には家を失った人々や引揚者、戦災孤児があふれていました。
学童疎開していた子どもたちも次々と帰郷しましたが、食糧難や家屋の焼失で厳しい生活を強いられていました。校舎が焼失した学校も多く、復旧はなかなか進みませんでした。昭和21年、雪の残る校庭で寒さに震えながら授業を受ける子どもたちの写真が新聞に掲載されました。淀橋第七小学校での授業風景でした。これを見た長野県伊那市の市原徳重氏が、地元の材木商の有志を募って寄贈した木材を使って出来たのが伊那教場です。
区内のほとんどを焼失した新宿区ですが、復興へ向けて人々の力強いエネルギーが集まり、闇市にも人々が群がるようになるにつれ、街は少しずつ活気を取り戻し始めました。
昭和22年3月15日、四谷区、牛込区、淀橋区が統合され、新宿区は誕生しました。

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