港区
戦争被害の状況
戦時中の港区
港区は、1944(昭和19)年11月24日に初めて空襲による被害を受けました。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲では、旧芝区を中心に甚大な被害を受け、『港区史下巻(昭和35年発行)』では「人類文明の進歩にそむいた一大悲劇」と記しています。その後1945(昭和20)年8月13日の港区内最後の空襲まで、度重なる空襲被害を受け、旧芝区のおよそ30%、旧麻布区・旧赤坂区のおよそ70%が焼失し、被災者は140,000人を超えたといわれています。
また、港区は、1871(明治4)年に現在の南青山一丁目に第一師団司令部が創設されました。その後、連隊や司令部の数が増加し、1886(明治19)年には青山練兵場が設置されるなど、近代の港区は、「軍都」としての側面もありました。



戦後の復興の歩み
港区の復興のあゆみ
終戦直後、港区内には強制疎開によってできた新橋駅前の広場には全国的にも最大級の闇市が作られました。なお、初めは汐留側に闇市は作られましたが、間もなくして旧桜田小学校の隣地に移されました。
人々は地面に商品を広げて売り、道路上には露店が並び、食べ物や生活用品を求める多くの人で賑わいました。
一方、終戦直後は「戦争孤児」あるいは「戦災孤児」と呼ばれた悲惨な生活を送らなくてはならない子どもたちが、あちらこちらに溢れていました。
そこで、港区の台場では孤児たちのための施設「東水園」を開き、効果的な保護救済施設として設けられました。
その後、1958(昭和33)年には当時世界最長の鉄塔となる東京タワーが竣工され、戦後復興のシンボルとなりました。さらに、1964(昭和39)年の東京オリンピック開催時には、首都高速道路や青山通りなどの整備、観光客を受け入れるために東京プリンスホテルの建設など、終戦から四半期を経て、戦後復興に一つの区切りが着きました。そして、復興とともに港区の象徴となる超高層ビルが多数建設され、現在の姿になりました。
