日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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富士見市

戦争被害の状況

富士見市の戦時下のようす
 1944年(昭和19年)、米軍による空襲が激しくなり、富士見市域でも小型戦闘機が現れ、機銃掃射による攻撃が行われるようになりました。
東京付近への夜間の空襲に対処するため、東京の周縁に高射砲、その外側に照空灯が配置されました。大宮から所沢まで担当する照空大隊の本部(陣地)が当時の鶴瀬村内(現・鶴瀬東)に置かれました。照空灯は、市域では下南畑と水子にも設置されました。3カ所合わせて200人程度の兵員が配置されました。
空襲が激しくなると、親類や知人を頼って富士見市に疎開してくる人が増えました(縁故疎開)。1945(昭和20年)4月2日未明、B29爆撃機が時限爆弾を投下し、市内で6人の方が命を落としました。

鶴瀬駅での出征兵士の見送り(昭和12年撮影)
昭和20年4月2日に落下した爆弾の破片:市内遺跡から出土した。昭和20年(1945)に投下された爆弾破片。空襲で爆弾が10数個落下し、児童も1人死亡したことが記録されている。
鶴瀬国民学校の学校日誌⑴:同日の鶴瀬国民学校日誌 爆弾10数個が落下し、児童1名が死亡したことが記録されている。昭和19年度日誌と20年度日誌に同様の記載がある。)
鶴瀬国民学校の学校日誌⑵:同日の鶴瀬国民学校日誌 爆弾10数個が落下し、児童1名が死亡したことが記録されている。昭和19年度日誌と20年度日誌に同様の記載がある。)

戦後の復興の歩み

富士見市の復興と発展
 東京が戦災から復興し経済成長が進むと、人口の集中も進みました。大都市で働く人々の住宅地が不足し、住宅化の波が広がり、1957年、鶴瀬団地の入居が始まりました。人口は急増し、1964年、富士見は町制を施行しました。人口はなおも増加し続け、1970年に市制の要件である5万人を超え、1972年には市制施行しました。
首都近郊という都市の強みを活かし、ベッドタウンとして、人口増加を活力に発展を続け、2022年に市制施行50周年を迎えました。
現在は人口約113,000人(2025年7月)となっています。
1987 年に「非核平和都市宣言」を行いました。平和の尊さを未来へ語り継ぐために、この年から毎年ピースフェスティバルが開催されています。さらに、同年に市民活動により「富士見平和かるた」も製作されました。かるたの売上金と寄付金により1995年、市役所の前に「平和の鐘」が建立され、市に寄贈されました。

駅からの帰宅(1974年)(鶴瀬駅から帰宅する通勤者)
完成間近の新庁舎(昭和48年)(完成間近の市役所新庁舎(1973年))
市内商業施設(ららぽーと)(鶴瀬駅東口からの大通り正面に見える大型店舗)
平和の鐘(平和の鐘と青桐 市役所敷地内。青桐は、広島で原爆から生き残った子孫。鶴瀬公民館の敷地にも同様に2本の青桐がある。)

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