熊谷市
戦争被害の状況
熊谷空襲の惨禍とその理由
終戦前夜の昭和20年8月14日夜11時30分頃、グアム島の米軍基地から飛来したB29爆撃機約80機が、熊谷市の中心市街地に約8000発の焼夷弾を落としました。“熊谷空襲”と呼ばれる出来事です。
この空襲により中心市街地の約3分の2を焼失し、市役所や公会堂、熊谷西国民学校などの主な建物が焼け、市街地周辺も含めて266人の尊い命が失われました。中心市街地を流れる星川には、炎の熱を避けるために多くの市民が集まりましたが、焼けて倒れた家屋の下敷きになったり、炎によって酸素欠乏になった星川で多くの方が亡くなったそうです。
この熊谷に最後の空襲があった理由が4つ考えられています。
第1に中小都市爆撃として行われたという理由です。昭和20年頃は日本の大きな都市はすでに大空襲を受け、壊滅的なダメージを与えられていました。そこで連合国側としては、最後の中小都市爆撃することで日本を終戦に導こうとする狙いがあったという理由です。
第2に軍需工場に対する爆撃としてという理由です。当時、現在の群馬県太田市には中島飛行機という戦闘機を製作する軍需工場がありました。そのため、熊谷市にはその戦闘機の部品を作る下請け工場がありました。そのことが爆撃を受ける理由になったと考えられます。
第3に県庁所在と間違えられたという理由です。戦後すぐに、熊谷市の郷土史研究家がGHQ本部に熊谷空襲の理由を問うた時、熊谷空襲の理由として明治6年から3年間、熊谷県(今の埼玉県北西部と群馬県全域)が置かれた時の地図を見せられたそうです。
第4に占領政策を進めるためという理由です。太平洋戦争の研究者によると、米軍が上陸した場合、熊谷市を関東以北の軍事拠点と想定しているため、熊谷市をたたいておく必要があったとコメントしており、終戦後の政治的な戦略が理由だということです。
実際のアメリカ側の公式文書を見ると、熊谷は中島飛行機会社のネットワークにまたがる重要な拠点で、比較的小さい下請け工場があり、また主要な工場地域を連結させている交通の要衝である、ということを理由としています。
このように、当時の熊谷市は軍需産業の拠点として、また交通上の要衝にある拠点的な中小都市として認識されていたために、「熊谷空襲」が行われた可能性が高いのではないか、と考えられます。




戦後の復興の歩み
熊谷市の戦後の復興の歩み
昭和20年8月15日正午、ラジオから「終戦の詔」が放送されました。しかし、熊谷では悪夢のような一夜があけたばかりで、平穏無事な昨日までの風景とは打って変わって、一面廃墟と化した焼け野原の中での終戦でした。悲嘆にくれている暇もなく、市民は未だくすぶる焼け跡の中で、犠牲者の弔い、後片付けなどの活動を始めました。
熊谷空襲では、多くの公共施設が焼失しました。昭和8年の熊谷市制を記念して建てられた公会堂と市役所も焼けてしまいましたので、昭和23年9月15日に焼失してしまった西国民学校(現在の熊谷西小学校)の跡地に新築移転し、その後昭和48年の市制40周年事業として現在の庁舎が建設されるまで使用されました。9月上旬には臨時復興課を設けて、罹災者の救助、焼け跡の整理等の活動を始めました。また、応急救護所を設け、負傷者の治療にもあたりました。罹災者には、8月15日より「空襲罹災者証明書」「罹災者証票」など各種の証明書が交付されました。
熊谷市は県内唯一の戦災指定都市であったため、昭和21年6月に埼玉県熊谷戦災復興事務所が設立され、県の直轄の事業として戦災復興が実施されました。熊谷市の現地事務所には技官の成澤壽氏を長として派遣し、実際の事業に当たりました。
復興計画については、市当局と市議会関係者らが数回にわたって議論を重ね、昭和24年6月、市議会議員代表6名と土地区画整理委員代表3名による戦災復興委員会を組織して、復興計画を進めました。
この計画により、中山道は国道17号線として拡幅工事が行われ、街路については市役所通線、星川通線、北大通線、熊谷駅通線など、現在の中心市街地の骨格となる街路が整備されていきました。特に星川通線の整備によってそれまでは住宅地の中を蛇行していた星川を直線に改修し、国道17号線のバイパス道路として北大通線を新たに設けたことで、整然とした中心市街地が造られていきました。
区画整理事業も工区を3つに分け、昭和30年3月に国の認可をとり、事業を行っていきました。また公園緑地や下水道など、生活に直結するような工事についても法律に基づいて認可をとり、工事を進めていきました。
これらの一連の復興事業は昭和34年に一応終結し、区画整理事業の換地処分が終了したのが昭和48年6月で、約30年にわたる多くの人々の尽力によって、今の熊谷市の街並みが作り上げられていったのです。


