日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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水戸市

戦争被害の状況

水戸を焼いた空襲
 昭和20(1945)年、全国各地の都市と同様に、水戸にも焼夷弾による爆撃が行われました。水戸が標的地とされた理由は、常磐線の輸送上の基地であり、日立の工場のための労働力の供給源であったからでした。
同年8月2日未明、マリアナ基地から飛び立ったB29爆撃機の大編隊160機が水戸へ来襲し、午前0時31分から同2時16分までの約1時間45分間、大規模な爆撃を行いました。
投下された焼夷弾の合計は、重さにして約1,145トンにのぼり、この「水戸空襲」で、水戸駅を中心とした市街のほとんどが焦土と化し、300名以上の尊い命が失われました。
また、このときに水戸城や東照宮、常磐神社といった歴史的建築物も多数焼失しました。水戸藩の藩校であった弘道館は、市民の尽力によって焼失を免れ、当時の姿を今も残しています。
(参考:水戸空襲戦災誌、概説 水戸市史)

空襲後の水戸駅前(水戸市立博物館提供)
空襲後の水戸郵便局前(水戸市立博物館提供)

戦後の復興の歩み

水戸市街の復興
 空襲によって激しく破壊された水戸市街地の復興は、県主体の戦災復興都市計画事業として実施されることとなります。しかし、水戸市の実情に即していないなどの様々な事情から、当初の計画は大幅に縮小されることを余儀なくされ、昭和25年に漸く本格的に着手されることとなりました。昭和31年には水戸駅から大工町までのメインストリートが完成し、水戸駅舎も近代的民衆駅に改築されました。並行して、観梅などの観光行事が復活したことで、商店街は急速に復興を遂げていきます。
その後、下市及び駅南土地区画整理事業によって水田地帯に新市街地が誕生し、水戸の市街地は大きく生まれ変わっていきました。
また、市民生活に目を向けると、農村部や都市の青年・婦人たち主導の様々な文化運動が隆盛となり、昭和21年に新学制建議されて以降は教育機関も次々再建され、水戸市は精神的にも豊かさを取り戻していきます。
その結果、昭和20年に約5万人だった水戸市の人口は、昭和30年には11万人を超えました。
こうして、水戸市は戦災の上に新しい都市として再興を遂げていったのです。
(参考:水戸空襲戦災誌、概説 水戸市史)

仮校舎の小学校を訪問した昭和天皇陛下(水戸市立博物館提供)
昭和25年ころの泉町一丁目の七夕祭の様子(水戸市立博物館提供)
泉町二丁目の夜の街路でダンスを踊る若者たち(水戸市立博物館提供)