いわき市
戦争被害の状況
30回の空襲、操業中の漁船にも攻撃
1944(昭和19)年からは、いわき地方において約30回にわたり空襲を受けました。このうち1945(昭和20)年3月と7月に合計3回にわたり中心市街地が爆撃を受け、市街地にあった家の3分の1が焼かれ、死者20人余を出すといういたましい結果となりました。
また同年には、いわき地方の30隻の漁船が操業中に茨城県鹿島灘沖で米軍の攻撃を受け、135人が亡くなっています。
これらの他にも、いわき地方の工場や駅などがたびたび空襲の被害を受けました。
1931(昭和6)年に起こった満州事変から1945(昭和20)年の戦争終結まで、いわき地方出身の兵士や軍関係者の死者は7,500人以上に達しました。
戦後の復興の歩み
石炭や漁業が復興に大きく貢献
1947(昭和22)年12月、傾斜生産方式が打ち出されると、常磐炭田の各炭鉱には豊富な資金が投入され、いわき地方の経済は力強く復興し、日本経済の立て直しにも大きく貢献することになりました。
戦後整備が再開された小名浜港は、1951(昭和26)年に重要港湾に指定されました。漁業は漁法、魚種ともに戦前とは大きく変化し、1947(昭和22)年、電気の照明を利用した棒受け網による漁法が導入されると、サンマの漁獲量が飛躍的に伸び、いわき地方の漁業の中心となりました。これらの鮮魚やその加工品は、戦後の食糧不足を担う大きな力となりました。
その後も漁船の大型化や船体の強化が進み、遠洋漁業の展開により、漁港は活況を呈しました。