日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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郡山市

戦争被害の状況

 郡山空襲
当時、郡山駅東側の一帯には戦争に必要な兵器・爆薬等の軍需物資を製造する軍需工場が数多く稼働しており、主な工場としては、航空燃料や爆薬の資材を製造していた「保土谷化学」、ガラス・岩石を繊維化し織物にする「日東紡富久山工場」などがありました。
また、軍都指定を受けていた関係もあり、第二次世界大戦の末期の昭和20(1945)年4月12日、米軍の爆撃機B29のべ150機が飛来し、工場地帯と民家街の広範囲に約1,500個の爆弾を投下したため、郡山市はかつてない大きな災害に見舞われました。
その後、2回にわたる空襲によって被害はさらに拡大し、市内の死者は530人を超えました。
さらに、7月29日には原爆投下の実験として、広島や長崎に原爆を投下した同じ部隊のクルーにより、模擬原爆が2発投下され、39人の命が奪われており、原爆投下で命を失った被爆者と同じように、原爆開発に伴う犠牲者が本市にもいるといえます。

空爆前の郡山駅前周辺(昭和10年頃)(提供:郡山市)
郡山空襲(昭和20年)(提供:郡山市)

戦後の復興の歩み

 復興への歩み
終戦の荒廃の中、郡山市は戦災復興都市の指定を受け、直接戦争に関与しない一般産業による都市復興を積極的に推進するとともに、全国に先駆けた基幹都市づくりを提唱し、昭和39(1964)年、常磐地区とともに新産業都市の指定を受け、内陸型の工業技術都市を目指しました。
これを契機に、昭和40(1965)年に安積郡9町村及び田村郡3町村を合併、人口約22万を数える全国有数の広域都市となりました。
以来、昭和48(1973)年の東北自動車道をはじめ、東北新幹線、磐越自動車道の開通や平成5(1993)年の福島空港の開港により、郡山市は、道路、鉄道、空港が結節する高速交通の要衝としての機能を高め、「陸の港」としての地位を確立しました。その後、平成9(1997)年4月には、東北地方で最初の「中核市」へ移行し、地方分権を先導する自主・自立の個性豊かなまちづくりを進めてきました。

NHK交響楽団公演(昭和29年)(提供:郡山市)
新産業都市指定(昭和39年)(提供:郡山市)
第1回うねめまつり(昭和40年)(提供:郡山市)
中核市宣言(平成9年)(提供:郡山市)