日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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羽後町

戦争被害の状況

戦時中の羽後町民の暮らし
 当時の羽後町(その頃は西馬音内町、三輪村、新成村、明治村、元西馬音内村、田代村、仙道村の1町6村)では、爆撃などの直接的な被害こそありませんでしたが、全国の他地域と同様に、この地域の家々にも赤紙(召集令状)が届きました。働き盛りの20代、30代の男性たちは、戦場へと赴くことを余儀なくされました。
召集令状が届くと、数日のうちに軍隊への入隊が命じられ、家族と別れを惜しむ間もなく出発の日がやってきます。出征兵士を見送るため、多くの住民が集まりました。皆が旗を振り、『勝ってくるぞと勇ましく』という露営の歌を口ずさみ、万歳三唱で兵士たちを送り出したのです。
しかし、地域は大きな労働力を失い、肥料や農機具なども戦争のために没収されました。その結果、野菜や米の生産量は大きく減少してしまいました。さらに、米の配給通帳制度や衣類、味噌、醤油の切符制度が導入され、食糧難はますます深刻化していきました。
昭和20年8月15日。ラジオを所有する家に、近所の住民が大勢集まり、天皇陛下のお言葉を聞きました。戦争は終わり、日本は負けました。人々は、戦争が終わったことへの安堵と、これから自分たちはどう生きていけばよいのかという不安で胸がいっぱいでした。

戦後の復興の歩み

戦後の羽後町民の復興への歩み
 戦後、人々の暮らしは困難と希望の交錯したものでした。人々は疲弊し、多くの家族が戦争の影響を受けていました。住民たちは、戦争で家族や友人を失った悲しみと、復興に向けての困難な日々を過ごす中でも、
復興への歩みを止めることはありませんでした。西馬音内地区に映画館が作られ、人々の生活に娯楽が戻ってきたことに加え、学校教育法(六三三制)の実施により7地区それぞれに中学校が作られ、子供たちは勉学にはげめるようになりました。
羽後町の大きな観光資源の一つである『西馬音内盆踊り』(令和4年12月ユネスコ無形文化遺産登録)は、地元の人々にとって大切な伝統行事であり、踊りを通して祖先を偲び、地域の絆を深める機会となっていましたが、敗戦の影響で昭和20年の開催はかないませんでした。しかし、戦没者への慰めの気持ちや住民の熱意によって翌年には再開されることになったのです。
西馬音内盆踊りの復活は、自分たちの誇りと文化の象徴であり、戦後の新しい未来に向けた希望の灯でした。今日まで続くこの伝統は、過去の苦難と復興の歴史を忘れないための大切な遺産として、大切に守り続けられています。