秋田市
戦争被害の状況
日本最後と呼ばれる空襲
終戦の前日である昭和20(1945)年8月14日の午後10時28分頃から15日未明にかけて、秋田市土崎地区は激しい空襲を受けました。
爆撃の標的は、当時、内地における精製石油の生産量の37パーセントを占めており、日本の石油産業にとって重要な拠点であった日本石油秋田製油所でした。
この空襲では、製油所のみならず近隣の地域も爆撃の被害を受けました。約130機の大型爆撃機が約1万2000発(953.9トン)の爆弾を4時間にわたって徹底的に投下し続け、製油所は壊滅。港湾施設も大きな被害を受けました。被爆戸数は236戸にのぼり、非戦闘員93人を含む合計250人あまりが命を落としたと推定されています。
終戦が宣言されたのは、空襲からわずか10時間あまり後のことでした。この空襲は「日本最後の空襲」とも呼ばれています。



戦後の復興の歩み
爆撃を受けた日本石油秋田製油所は、1週間にわたって燃え続けました。
日本石油本社では、社会情勢を鑑み、秋田製油所を再興する方針を固めました。
壊滅した工場の再建にあたっては、資材入手難と労務者の食糧難をはじめとした多くの困難が立ちふさがり、計画は何度も頓挫しました。
昭和21(1946)年9月、秋田製油所の第一期復興工事が完了し、昭和23(1948)年12月には第二期復興工事が完了しました。
また、昭和23(1948)年の夏には、土崎空襲で甚大な被害を受け、雄物川河口の交通を妨げていた老朽軍艦3隻に砂を積み込み、沖合に沈めました。その沈船を土台として、北防波堤の建設が進められました。
平成29(2017)年、旧日本石油秋田製油所で被爆した建物の中で唯一残っていた建造物「被爆倉庫」が施設老朽化に伴い解体されました。被爆倉庫に使われていた柱や梁の一部は、平成30(2018)年に市が整備した「秋田市土崎みなと歴史伝承館」に移設され、痛々しい形状のコンクリートや鉄筋がそのまま展示されています。この展示は、現代に生きる私たちに戦争の悲惨さを忘れさせず、平和の大切さを訴え続ける貴重な資料となっています。