石巻市
戦争被害の状況
小学校への空襲被害
1945年7月に入ると、石巻市周辺では日に数度の警戒警報や空襲警報が発せられるようになり、学校では授業や作業を行うことが難しくなりました。また、10日の仙台大空襲以後、県下各地で機銃掃射や爆弾投下が行われ、石巻市でも緊張が高まっていました。
8月10日午前5時空襲警報が発令され、松島海軍航空隊矢本飛行場基地と女川港が爆撃と機銃掃射を受け、続いて中瀬の造船工場で工員11名が死亡する機銃掃射があり、同時に石巻国民学校も爆撃を受けました。当時は夏季休業中であったが、教職員は空襲による校舎火災が予想されるため、連日全員が出校していました。被害状況は、各教室等に弾痕が見られ、投下された爆弾は不発で、屋根に2メートル程の破壊口をつくりました。理科準備室は倒壊し、その他4教室に莫大な被害がありました。
この頃、県内を襲っていた艦載機は、本土沿岸を南北に移動し沿岸各地に攻撃を加えていたハルゼー大将が指揮する史上最大最強といわれた米英混成の機動部隊、第3艦隊のものであり、空母12隻、軽空母6隻から飛び立った延べ407機の艦載機の内、県内に305機、石巻管内にその半数の約150機が来襲しました。石巻市では被弾により即死した小学生を含む市民がその犠牲となりました。
(出典:『石巻の歴史』『牡鹿町誌』(発行:いずれも石巻市(旧牡鹿町含む。)))


戦後の復興の歩み
戦後の教育改革、新たな市政へ
1945年9月11日、連合国占領軍の先遣隊が松島に到着し、ポツダム宣言受諾による敗戦1ヶ月後の15日から本格的な「進駐」が始まりました。9月26日まで約1万名に達し、石巻も駐屯地の1つとなりました。学校が戦時動員体制を解いて通常の形に戻った夏休み後には、教科書の黒塗り作業が行われました。その範囲は、「軍国主義」にかかわる語句・表現ばかりでなく、国家神道的なもの、日本の武道に関するもの、平家物語などを中心とする日本の古典までに及びました。毎日が墨で塗りつぶす作業に費やされ、10月初めまでかかりました。生徒たちにとっては、それは大日本帝国の時代からの決別の作業でもありました。戦後も欠乏生活は続きましたが、石巻日和?楽部は駐屯アメリカ軍と親善野球試合を10月に石巻中学野球場で開催し、明るい話題を県下に提供しました。
1946年4月、石巻市では後任市長の選出方法をめぐって、旧来の方法によるべしとする多数派と、公選方法をとるべしとする派が市会内部で対立しましたが、市民大会開催の結果、市民の投票に基づく公選とする意思が決議され、市民監視の下に市会は逆転裁決を行いました。市民大会に前例のある石巻市の歴史にふさわしい戦後市政のスタートでした。(出典:『石巻の歴史』(発行:石巻市))

