盛岡市
戦争被害の状況
軍需資材供出で台座のみが残った
第二次世界大戦の影響で軍事物資以外は生産制限が設けられ、伝統工芸の一つである南部鉄器も一時生産禁止となりました。また、盛岡城跡公園(岩手公園)にあった南部家42代当主・南部利祥(としなが)の騎馬像も昭和19年(1944年)4月に軍需資材として供出され、現在は台座のみが残っています。
盛岡市は、終戦の年に2度の空襲を受けました。1度目は、昭和20年(1945年)3月10日未明、B29の焼夷弾投下による空襲を受け、盛岡駅前を中心に家屋155戸が焼失し、死者3人、負傷者5人、罹災者613人の被害を受けました。また、同年8月10日の空襲では盛岡駅付近等が罹災しました。

