苫小牧市
戦争被害の状況
樺太からの引揚者3,000人を受け入れ
北海道全域に空襲があった1945(昭和20)年7月14・15日、苫小牧にも米軍機が襲来。王子製紙や大日本再生製紙の工場をはじめとして、市街地にも機銃掃射や爆撃が行われました。
錦岡地区では、漁に出ていた漁船が機銃掃射を受け、分かっているだけでも6名の死者が出ました。当時漁船の上で空襲を受けて生き残った人は、「米軍機の操縦士の顔が見えるほどの低空飛行だった」との証言を残しています。
空襲と同日の14日、樽前山に米軍機が一機墜落しています。搭乗員2人のうちの1人であったオリバー・ラスムッセンは負傷しながらも奇跡的に助かりました。2ヵ月間山中に潜伏した彼は、9月中旬に上空を静かに飛行する米軍機を見て終戦を確信し、市内中心部におりたところを警察署に保護されました。
米軍機墜落の翌15日には、日本陸軍の重爆撃機「飛竜」が柏原に墜落し、搭乗していた7名のうち6名が命を落としています。
苫小牧市内には、米軍が上陸してきた場合に備えて海岸に塹壕やトーチカが作られました。そのうちのいくつかは今でも現存しており、苫小牧も地上戦の舞台になる可能性が想定されていたことを物語っています。
戦後、苫小牧も食糧不足にみまわれ、人々は食料を自給するために空き地を畑にして芋やカボチャを育てたり、肥料用の魚を食べたりもしたといいます。
日本領だった頃の南樺太では、王子製紙が9つの工場を運用していました。終戦の年の8月9日からソ連は樺太への侵攻を開始し、現地に住んでいた日本人は日本への引き揚げを余儀なくされます。同じく王子製紙工場があった苫小牧にも数多くの人々が引き揚げてきました。苫小牧は1948 (昭和23)年に市制を施行しますが、その背景には、1947 (昭和22)年までに3,000人超の引揚者を受け入れた結果の人口増加という戦争の影響もあったのです。


戦後の復興の歩み
戦後の食糧対策とのびゆく苫小牧
苫小牧町では1945(昭和20)年に食糧危機打開のため、食糧対策委員会を設置して苫小牧でとれた魚粕を近隣地域の農産物と取り換える働きかけを行いました。一方、民間企業や町民などが苫小牧沿岸の海水を利用した小規模な製塩工場をつくりました。成果はなかなか上がりませんでしたが、行政・民間・町民が一丸となって食糧問題に対して取り組みました。
1945(昭和20)年当時の苫小牧の人口は26,832人でした。多くの地元出身兵士や樺太からの引揚者、開拓入植者が加わり、1946(昭和21)年に2,259人、翌47(昭和22)年には1,677人の人口増があり人口は30,000人を超えました。苫小牧町ではまちの一層の発展を願い市制施行を求める動きが活発になり、1948(昭和23)年に苫小牧市となりました。市制施行は、戦後の混乱、食糧不足、生活物資の極端な減少など暗い生活ばかりだった当時の世相に明るい希望と勇気を与えました。また、敗戦をきっかけとしてそれまで抑圧されてきた文化活動が高揚していきます。苫小牧及び近郊には詩人の浅野晃や版画家の川上澄生が疎開しており、彼らの指導や交流を通じて地域の文化・芸術活動が花開きました。
さらに、戦争のため中断していた港の建設への機運が再び高まります。1951(昭和26)年から苫小牧港の建設がはじまり、1963(昭和38)年に日本初の本格的な内陸掘り込み式人造港である苫小牧港(西港)が開港しました。戦後、北海道で産出した石炭を本州の工業地帯へと運ぶ石炭積出港として誕生した苫小牧港は、工業港や流通港として姿を変えながらいまもなお進化し続け、工業のまち苫小牧の礎となっています。

